愛情の表し方

みなさん、こんにちは。コアネット教育総合研究所の福本です。

昨日は、秋田・岩手での大雨による被害に関する痛ましいニュースに衝撃を覚えました。
ちょうど、昨日から東北地方を訪れていたので、より身近に感じたということもあるかもしれません。
自然の驚異的な力の前には、我々の力なんてちっぽけなものだ、ということを痛感させられます。


そして今日は、文科省が行った「体罰」に関する調査結果が新聞に出ていました。
全国の小・中・高校、そして特別支援学校で体罰を受けた児童・生徒は14000人を超えるという結果でした。
この数字を多いとみるか、少ないとみるかは、いろいろな意見があると思います。

私が感じた「痛み」は、この数字というよりも「素手で殴る」「蹴る」「棒などで殴る」といった体罰の内容です。
そんなことが教育現場で起こっているという事実に胸が痛みます。

私が子どもだったころ、まだ体罰はそれほど問題視されていませんでした。私も学校の先生に「素手で殴られた」ことはあります。
また、通っていた学習塾では、宿題を忘れると机と机の間に一列に忘れた生徒が並ばされて一人ずつ「ビンタ」を受けました。

それが今でもトラウマとして残っているかというと、実はそうでもありません。私が鈍感なだけかもしれませんが…。
しかし、だからと言って体罰を擁護しようとは思いません。


やはり、体罰によって子どもたちを矯正するという手法は考え物だと思います。時としてきつく叱ることはあったとしても、殴る等の体罰は今の社会にはなじまないのではないでしょうか。

今、私たちには「自分で考え、自分で行動することができる」人材の育成が求められていると思っています。体罰によって指導された子どもたちは、自分たちで考え、行動できるようになるのでしょうか。

殴られたくないからやる、これをすると殴られるから、殴られなくて済むようにやる、ということで子どもたちの自主性は育たないと思うのです。


体罰をある程度擁護する、という立場をとる時、「愛情を持って行う体罰であれば、ある程度はしょうがないのではないか」という議論があります。

でも、本当に「愛情を持って」子どもたちの将来のことを考えるのであれば、「殴る」という行動にはつながらないのではないか、と思うのです。
となると、体罰を行う時、教員の感情的な部分がその要因になってしまっている可能性が少なくないのではないか、と感じるのです。


暴力は良くない、子どもたちの人権を守らなければならない、という視点は当然のこと、教育的な効果という視点からも、この体罰という問題は考えていかなければならないのではないか、と思います。